坂本龍馬は英国の傀儡だった 明治維新を成させた『F・M』

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日本はかつて幕府を頂点とする幕藩体制が敷かれた封建社会であり、士農工商・男尊女卑・人身売買・相互監視の中で民衆は極度に縛られていました。

薩長連合を中心とした倒幕運動によって絶対的な力を持っていた徳川幕府は覆され、現代日本への歩みは始まりました。これが明治維新です。

しかし260年以上も強大な力を持って国を支配していた幕府とその他の力の差は歴然。一つ二つの藩が団結したからといってその差は埋まるものではないはず。

なぜ開国派は”革命”を成し遂げられたのでしょうか?

これは表立って知られていない歴史の闇とも言うべき話。その裏には”革命のプロフェッショナル”とも言うべき強大な力を持った黒幕が暗躍していたのです。

これは現代日本に生きる全ての日本人が知っておかねばならない事です。

現在学生たちが学ぶ”どこの誰々が” ”どうした”という試験のための歴史は、様々な力や思惑が介入して造られたものです。

進学試験が終わった後は、“なぜそれができたか?”という“真の歴史”の姿を知っていただきたいと思います。

アメリカ独立戦争・フランス革命の糸を引いた革命のプロたち

明治維新以前に世界で起きた大きな革命と言えば『アメリカの独立戦争』『フランス革命』があります。

1775年に起きたアメリカの独立戦争では、イギリスの支配に対して民衆が反発し決起。1年で独立宣言を勝ち取ります。

フランス革命は絶対君主制への貴族や民衆の怒りが爆発して起きたクーデターによって、王政が倒された事件です。

その両方で糸を引いたのがフリーメイソンです。

こちらは独立したアメリカの初代大統領に就任したジョージ・ワシントンです。ワシントンは1752年、独立戦争勃発の3年前にフリーメイソンに入会しています。

出典:PRINTEST

こちらの図はフリーメイソンの儀式用衣装に身を包むワシントン。前掛けや頭上にフリーメーソンの象徴『定規とコンパス』『G』が描かれています。

また独立宣言に署名した、ベンジャミン・フランクリントマス・ジェファーソンなどもフリーメイソンとして有名です。

米1ドル札にもフリーメイソンのシンボル”ピラミッドの目”があることは誰もが知っています。

そして1789年~1799年のフランス革命。その中で活躍したヴォルテールルソーなどの思想啓蒙家、政治家、貴族もフリーメイソンメンバーでした。

出典:PRINTEST

こちらはフランス革命の象徴『フランス人権宣言』の扉絵です。『declaration des droits de l’homme』で検索すると数種類の絵が出てきますが、どの絵も中央上部にはフリーメイソンのシンボルが描かれています。

こうしてヨーロッパ・アメリカ大陸の革命を遂げた彼らの目は、海を越えて東の島国に向けられるのです。

日本に降り立ったフリーメイソン

日本の江戸末期。飢饉が続き、税収は落ち込んでいました。そしてその直撃を喰らうのは飯を食うや食わずやの下級武士や民衆です。

そのフラストレーションは次第にお上へ向けられ、急進派が育ち始めます。

ですが絶対のお上に反抗すれば打ち首の時代、表立った行動ができるはずもなく具体策はありませんでした。

また当時日本へ向けられていた列強国の開国圧力も内輪もめの混乱によって下火となっていました。

そして、そのように混迷を極める日本の地に、密かに降り立つものがありました。

それがフリーメイソンだったのです。

初めのフリーメイソン

1779年。ユダヤ系オランダ人アイザック・ティチングが日本に降り立ちます。ティチングはアヘン戦争の発端となった中国への阿片の輸出で有名なイギリス東インド会社の社員でした。

彼は自由も平等も知らない日本のがんじがらめの身分制度を目にします。

『自由 平等 博愛』を掲げるフリーメイソンに所属する彼は、日本でビジネスをするためには、まずは民主主義の種を植え付けなければ、と考えます。

彼はビジネスマンであるとともに、諜報活動員としての顔も持っていました。

情報ネットワーク未発達の時代に諜報員は他国の情報を得るため欠かせない存在であり、諜報員として活動する民間人も多かったのです。

彼は日本の蘭学者達と積極的に交わり、オランダへ日本の情報を送ります。

彼はその帰国後、日本について詳しく記さた『日本風俗図誌』などの本を出版しております。

彼が捲いた”開国思想の種”は、日本の蘭学者やその弟子たちの中で育ち始めるのです。

アメリカ・ペリーの黒船来航

ビッドル提督の日本来訪から7年後、マシュー・ペリーが黒船で来航します。彼もまたニューヨークの『ホーランドNo.8』所属しそのフリーメイソン歴は34年という人物でした。

「幕府の拒絶姿勢は弱さの表れである」と読んだ彼は強硬手段に打って出ます。そして、長きに渡って鎖されたこの日本を、たったの9ヶ月という短期間で開国させてしまったのです。

動揺した幕府に対し各国は次々と不当な通商条約を突き付けます。

また、このことで幕府内部に在った”一橋派”や”南紀派”といった”改革派”が動きを見せ始めます。それが引き金となり、地方諸藩からも独立採算や自由商売への改革を求める意見が出始めます。

そしてさらに、イギリスと幕府の貿易独占に反発心を持った薩摩を中心とする各藩の間に「幕府も外国も倒さねば」という攘夷思想が生まれ始めるのです。

英国商人トーマス・ブレイク・グラバー

フリーメイソンの歴史の色濃い街で育ったトーマス・グラバーは19才で上海へ渡り、英国のフリーメイソン・上海ロッジへ出入りするようになります。

何も持たなかった少年は上海ロッジで本国では到底手に入らないようなコネクションを手に入れ始めます。

ジャーディン・マセソン商会という、アヘンを中国に売りさばいて財を成した巨大な英国企業に所属した彼は、2年後の1859年、日本の長崎に降り立ちます。

グラバーがフリーメイソンであったという確証は見つかっていません。ですが、近年になって長崎にロッジがあったと証明する証拠が見つかったことや、長崎に残るグラバー邸にフリーメイソンのシンボルマークが刻まれていることからその可能性まことしやかに囁かれています。

彼が後年「グラバー史談」で語った言葉です。。

「自分に歴史はない・・・」

「自分の名は出さぬように・・・」

グラバーに操られた志士たち

“鎖国” ”尊王攘夷” ”公武合体” 様々な思想に揺れる日本を駆け抜け、維新を勝ち取った英雄として語り継がれる攘夷志士たち。

しかし、なぜ龍馬ら郷士という下級武士であった彼らが幕府と渡り合うことができたのでか。

もうお気づきかも知れません。

その裏で暗躍したのが英国―――そしてフリーメイソンだったのです。

五代友厚と薩英戦争

薩摩藩士・五代友厚は、藩の海軍力強化のための外国船の輸入でグラバーとつながります。

外国への好奇心の強かった五代と貿易を推し進めるグラバーとの間で薩摩と英国とのラインが出来上がりました。これにより五代は地位を確立し、のし上がっていきます。

また薩摩藩士がイギリス人を斬り殺した『生麦事件』の際、賠償を巡り艦隊で薩摩へ詰め寄る英国との交渉で、五代はグラバーに手引きされ、暗躍します。

しかし薩摩側からの砲撃を皮切りに『薩英戦争』が勃発。その結果、薩摩は大打撃を喰らいます。

その結果、五代に『英国側のスパイ・裏切り者』と嫌疑がかかり、藩から追われることになってしまいます。

しかし、その後グラバー邸に身を潜めた五代は差し向けられた追手を懐柔し、薩摩家老の小松帯刀を通じて薩摩を開国派転向へと導きます。

息の掛かった五代を上手く薩摩藩中枢へと送ったグラバーは、薩摩の軍事物資の仕入れを一手に仕切ることになります。

“開国派”となった長州志士たち

またグラバーの手引きで英国へ留学した長州藩の5人の若者がいました。伊藤博文、井上馨、井上勝、遠藤謹助、山尾庸三です。彼らはのちに『長州ファイブ』と呼ばれます。

マセソン商会の支援を受け、ロンドンの大学に通い英国の文化を直に感じた彼らは、日本の窮屈な封建社会との違いを思い知るのです。

最後まで残ったのは山尾庸三でした。彼は造船技術を見るためロンドンに残りますが、資金が底を尽き困窮してしまいます。

そしてそこで出会ったのが、半年遅れで英国に入った五代友厚ら薩摩藩でした。

彼らは山尾に援助し、スコットランドの造船都市グラスゴーへ送り出します。坂本龍馬が薩長同盟を取り持つ2年前、すでに彼らは異国の地で通じ合っていたのです。

グラバーと坂本龍馬

出典:meiji-portraits.de 出典:printest

龍馬は表向きを”脱藩”とした土佐藩密偵でしたが、幕府側諜報筋の勝海舟に能力を見込まれ”二重スパイ”になります。

そして1864年、龍馬は勝と共に長崎を訪れグラバーと出会います。

この年の8月から3ヵ月、そしてそこから再び6ヵ月、龍馬の足取りの中で消息がつかめなくなっている期間がありますが、その期間に“海外への密航説”が囁かれています。

頻繁に上海や江戸を行き来していたグラバーと共に行動していたとしても不思議ではありません。

上海と言えばグラバーがフリーメイソンロッジに出入りしていた都市です。「まさか龍馬も―――」そのような考えが、頭をよぎります。

そしてこの頃から、グラバーと交わった五代の薩摩と、龍馬の長州連合との繋がりが根付いていくのです。

長州攻撃の口実を造るため英国が自作自演?

1863年イギリス公使館へ火を放ったものがいました。「ジョーイ!」と叫び火を放ったのは伊藤博文、高杉晋作らでした。

しかし博文は開国派の桂小五郎と志を同じくし、開国派スパイとして活動している男です。

そしてこれに参加した井上馨もそれは同じはず。彼らは長州ファイブとしてこの放火から4ヶ月後にイギリスへ渡っているのです。

つまり、これは薩摩の時のように攻撃する口実を作るため、英国が伊藤らを使って仕組んだ自演の可能性が高いのです。

なぜ回りくどいことをするのかというと、当時英国側は英国本国から、力による他国への侵略を禁じられたいたのです。そのため、攻撃を仕掛けるには”報復”などの口実が必要でした。

また、この時開国派でなく攘夷派だった高杉は、開国派のスパイであった伊藤らに利用されて事件を起こしたと考えられます。そして伊藤が友であった高杉を開国派へ引き入れようとしていたとも見られています。

この放火がきっかけとなり、英国オールコック公使率いる大艦隊が長州藩へ向けて横浜を出港。

そしてこの時、英国留学中の伊藤、井上馨は6ヶ月でグラバーによって呼び戻されるのです。

大艦隊を前に長州藩は白旗を上げ和平交渉に応じようとします。しかし長州側からの書状を預かった伊藤は、英国艦隊と行き違いになります。そして井上は長州の砲撃隊をいさめてから、船を出して向かうという行動を取るのです。

そしてその結果、交渉は失敗に終わり、英国は長州に対し攻撃を仕掛けます。

なぜ交渉は失敗したのか?

この際の、伊藤・井上の動きには、まるで紛争を止めたくなかったかのような不自然さが漂っています。そう、彼らは”攻撃を止めるため”ではなく、あくまで”攻撃後の処理”の為、つまり英国側のために動いていた可能性があるのです。

英国の攻撃に長州側は手も足も出ず、紛争は2日で決着がつきます。

伊藤・井上は英国側の工作員であった。この事件の後、それを証明するように、彼らの英国諜報員としての扱いは盤石なものとなります。

そしてその後、英国側との話し合いのために伊藤が連れてきた長州の家老・宍戸刑馬。しかしこれは偽名であり、全権正史として副使を二名伴いやってきたその男の正体は高杉晋作だったのです。

伊藤は友であり上級武士である高杉を頼ったのです。高杉は藩主の和平親書を届けることを約束します。このことでわかるように、すでに高杉も開国派に回っていたのです。

その後一時、高杉たちは反対派に裏切り者として命を狙われます。

しかし、結果的に、薩摩に続き長州が英国に傾いたのです。

亀山社中はグラバーの武器輸入のためのダミー会社

下関砲撃の後、長州藩との密貿易は幕府と英国によって封じられていました。しかし、長州に武器や船を売りたいグラバーは、ダミー会社を設立することを考えます。それが亀山社中です。

そこで責任者として幕府・長州の両方に通じる坂本龍馬に白羽の矢を立てます。

グラバーは亀山社中を使い確保していた武器を長州に売ります。そして龍馬に貿易を教え込み自らのエージェントとして育てます。龍馬はグラバーの下でリーダーとしての素質を開花させていきました。

日本人最初のフリーメイソン 西周

オランダ留学していた幕臣の西周はオランダでフリーメイソンとなります。その後に津田真道が入会。

西は1865年12月薩摩の五代・寺島とパリのホテルで会います。しかしこの時、幕府と薩摩は敵同士。そう、裏で何者かが糸を引き計画的に両者を引き合わせたのです。

彼らはパリでオペラ鑑賞などをして10日間も行動を共にしています。フリーメイソンとなった西と開国派・五代らの目的は1つでした。「幕藩体制を崩し自由・平等を」

西は帰国後、幕府内部から「武士の解体」を主張します。

薩長同盟の黒幕

薩長同盟は長州の桂小五郎、薩摩の桂久武・大久保利通・西郷隆盛によって行われました。

同盟は当初薩摩側のモチベーションが低くスムーズに運びませんでした。しかし龍馬の仲介によって同盟が結実します。ここまでは”歴史通り”です。

しかし、不可解なのは同盟の面子です。

薩摩側は企業や県に例えれば”トップクラスの重役揃い”。それに引き換え、融資をお願いする立場である長州側・桂は、せいぜい部長の位だったのです。現代の商談で考えればとても有り得ない上に、時は格を重んじる武家社会の時代です。

さらに仲介役の龍馬にしても土佐藩を脱藩した下級武士の身分。

これらのことから、薩摩にしてみれば会合自体”無礼”と感じてもおかしくないはず。しかし薩長同盟は結ばれました。

ここで思い出してください。薩摩藩に強い影響力を持った人間は誰か。龍馬を囲いエージェントとして育てたのは誰か。

薩長同盟は言わば龍馬の背後にいるその人物が糸を引いた可能性が高いのです。

~、神明の知る所に御座候。

(薩長同盟・合意文書 龍馬の裏書文末)

『神明』とは一体、何を指しているのでしょうか?

土佐藩を開国派に変えた『イカルス号事件』

明治維新の中心となった藩の内、英国は長州・薩摩を手中に納め、残るは土佐です。

『イカルス号事件』はイギリス人水夫2名が繁華街で切り殺された事件です。現場付近の噂から、嫌疑は土佐の龍馬率いる”海援隊”に掛けられます。これに対し英国パークス公使は幕府の陣取る大阪に乗り込み猛抗議。そして「犯人捜しのために土佐に乗り込むと」言い放ちます。

そして土佐参政の後藤象二郎に対しパークス公使は強硬・高圧的に詰め寄ります。

しかし、不可解です。日本における英国代表である公使のパークスが、下働きの水夫の殺人事件捜査に自ら乗り出して大阪や土佐へ駆け回っているのです。しかも事件に関して得られている情報は噂程度の状況証拠のみでです。

ここで薩英戦争を思い出してください。これはイギリスの民間人が土佐藩士に殺された”生麦事件”が発端です。このことで薩摩は英国に乗り込まれる口実を与えてしまったのです。また、長州も軍事力によって英国へ堕ちました。

英国本国は武力による侵略を認めていません。乗り込むには“報復という口実”がいるのです。

つまりこのタイミングで起きた『イカルス号事件』は英国に与するの何者かが意図的に起こした可能性が高いのです。

パークスが土佐から再び大阪へ入り、そこで示し合わせていたように会った人物。嫌疑をかけられたのは”海援隊”。海援隊を率いるのは―――――

口実を得た英国は土佐の後藤を懐柔、後藤を通じて藩主山内容堂は開国・倒幕の路を決断するに至ります。

これにて、明治維新の役者は揃いました。

徳川幕府を追い詰めた英国の2重外交

英国パークス公使の傍にはアーネスト・メーソン・サトウという英国人がいました。パークスが土佐から去った後、参政の後藤を懐柔したのもこの男です。サトウは岩倉具視や大久保利通らと同じ過激な武力倒幕思想派でした。

パークスは公使としてあくまでも幕府と藩の中立の立場を取りつつ、幕府に対し兵庫の開港を要求します。しかしサトウはそれと同時に倒幕勢力を煽り開港を妨害するというまったく逆の行い、ダブルスタンダードの立ち位置を取ります。

その行動の理由。それはあくまでも目的は武力倒幕であり”港を閉ざしておく”ことが武力倒幕派の象徴となるからです。これはパークスとサトウが対立しているというわけではありません。あくまでパークスは公使として“中立の立場で振舞っている”のであり真意は別にあるのです。

これはつまり英国と討幕派の間で幕府を板挟みにして混乱させ弱らせるという、英国の得意とする作戦でした。

諸藩へ軍艦で英国の力を誇示

英国艦隊は何かの節目の度にその国力を見せつけるように全国各地の港に寄港しました。その際、諸藩に江戸への連絡員を設置させ、のちに英国側に取り込む算段をつけます。

港の利用を巡り藩士との交渉をする際には、パークスが高圧的な態度で迫り、後にサトウがフォローしてスムーズに言うことを聞かせるというやり方を取ります。

また英国商人グラバーも独自の方法で開国への種をまきます。

自分の邸宅に親睦会のように武士やイギリス人を招いて接待し、武士に英国の文化や思想の魅力を教え込み、英国側に取り込んでいきました。

情報扇動工作

インターネットどころか電話もなく通信手段に飛脚が使われた時代、情報扇動の力は絶大です。

大政奉還が成される20日前、大衆が情報を得るための最もポピュラーな新聞に、まるですでにそれが行われたかのような記事が載りました。これによって民衆は混乱し大きなが起こり始めます。そしてその混乱は波紋となり頂点にある幕府を動揺させます。

こうして維新への土台は着々とできあがっていったのです。

そしていつしか、徳川最後の将軍慶喜は”幕府の終わり”を決断するのです。

江戸幕府の終わり 大政奉還へ

1863年11月9日徳川慶喜は朝廷に大政奉還を上奏します。慶喜に議会草案を示し、大政奉還に向けて立ち回ったのは西周。そう、彼は幕府の人間でありながら、日本人最初のフリーメイソンです。

大政奉還の前に幕府老中は英国艦隊トップのパークスにすがります。これはパークスがあくまで中立として振舞っていたためです。

また幕府側の軍艦奉行であり、英国エージェントとして暗躍した勝海舟はこの時陸軍総裁若年寄という座に就いていました。幕府側に英国らの圧力が加わり、勝を最高指導者の地位に据えたのです。

勝海舟と西郷隆盛による談判が行われます。場所は高輪・薩摩藩蔵屋敷。海に面し英国・フランス・オランダの公館、英国艦隊が取り囲む場所です。現在は埋め立てが進みましたが元は海沿いで、すぐ目の前に江戸湾が広がっていたようです。(地図)

この時、日本は英国勢力によって逃げ場を奪われ、完全に掌握されたのです。

パークス、サトウが介入し西郷らに圧力をかけたため、武力倒幕には至らず無血開城で決着を向かえます。

そして翌年1月10日パークス、サトウは大阪城にて徳川最後の将軍慶喜と会います。

大政奉還の原案 英国に倣った『船中八策』

大政奉還までの舞台裏で、龍馬らが船の上で練ったとされる薩土盟約や大政奉還の建白書の原案が『船中八策』です。

  1. 政権を朝廷に返す
  2. 上院、下院を設ける
  3. 人材は色々な階層から幅広く募集する
  4. 外交を確立する
  5. 新たに憲法・法律を作る
  6. 海軍の強化
  7. 首都防衛の近衛兵の設置
  8. 通貨の整備

これはサトウやグラバーの言論を元にしたものであり、英国様式をそのまま取り入れたと言っても過言ではないものになっています。サトウは龍馬らに「英国と同じ島国の日本は、英国に習えば同じような大国になれる」そう説いたのです。

明治新政府・内閣 その他

  • 伊藤博文(長州) 初代総理 長州ファイブ
  • 井上馨 (長州) 外務 長州ファイブ
  • 山尾庸三(長州) 法制局長官 長州ファイブ
  • 遠藤謹助(長州) 造幣局長 長州ファイブ
  • 吉井幸輔(薩摩) 元老院議員、日本鉄道会社社長 サトウのエージェントとして活動
  • 五代友厚(薩摩) 外務省 グラバーの諜報員
  • 寺島宗則(薩摩) 外務省 グラバーの諜報員
  • 陸奥宗光(土佐) 外務省 グラバーの諜報員
  • 西周  (幕府) 最高顧問、貴族院議員 日本人初のフリーメイソン
  • 津田真道(幕府) 外務権大丞 西と共にオランダ留学中フリーメイソン入会
  • 岩崎弥太郎(土佐) 初代三菱財閥初代総帥 グラバーに商売を習いその後も密接に関わる

これは余談ですが、西郷と勝による無血開城の談判が行われたの薩摩藩蔵屋敷跡には現在、グラバーのビジネスを補佐した岩崎弥太郎の興した三菱のグループ企業社屋があります。

これも何らかの因縁なのでしょうか。

出典:travel.jp

明治維新は必然だったのか

今回の記事はこちらの加治将一さんの著書『あやつられた龍馬』を参考にさせていただきました。

明治維新の重要人物たちとフリーメイソンとの関わりと証拠となる写真掲載されているほか、フリーメーソンだった多くの人物のことが調べられておりとても興味深い内容でした。さらに史実や一般論への鋭い指摘などがとても的を得ており、まさに”外堀から埋められていく”ように反論の余地もなく、読み進めてしまいます。全てが濃い内容です。日本人には是非一度読んでいただきたい本です。

今回は文字数が膨大になってしまったので、”龍馬暗殺”に関わる部分までは書くことができませんでした。

私は第二次世界大戦の敗戦によって日本がアメリカから文化的・政治的に支配されていたことをこれまでにもブログに書いてきました。

【洗脳代理店・5】政府・GHQとの関わり・反日の実態
【洗脳代理店・5】政府・GHQとの関わり・反日の実態
【洗脳代理店】目次 1.テレビ・新聞を信じている人達へ 2.やらせ・捏造・事件 3.五輪不正誘致・パナマ文書 4.印象操作・世論誘導...

しかし明治維新の時点で、日本はすでに英国によって英国の“コピー国家”にされていた可能性について知りました。

明治維新の顛末から私が受ける印象は、国家による“侵略”“いじめ”そして“催眠”です。英国の掌の上で開国に向かって進んでいく日本が、まるで催眠術を掛けられて意のままに操られていくように思えました。

以前から”明治維新がなかったら…日本が開国していなかったらどうなっていただろう?”と考えることがありました。

もし大国が日本をターゲットにしていなかったとしても、鬱屈した封建制度の中で、税や格差に苦しむ民衆の不満はどこかで暴発していたのかもしれません。そうなれば国内の情勢は悪化し内乱の絶えない国になっていたのでしょうか。それとも、民衆は耐え続け江戸幕府がその後も続く中で、我々は差別や飢餓に苦しんでいたのでしょうか?

そう考えると英国に従って維新を成し遂げた志士たちは正しかった…あるいは仕方がなかったとも考えられます。

教科書と違う明治維新の内容に対し、不信感を覚える方もいるでしょう。

ですが、まず知っておかなければならないのは、写真技術や通信技術が発達する近代以前の歴史の中で、正確に伝わっていることが果たしてどれだけあるでしょうか?

太古の昔から国家や民族間で無数の争いが起こってきましたが、敗戦し侵略された側の歴史を抹消するのも捏造するのも、勝利し侵略した強者の思うままだったのです。

私個人の考えとして述べさせていただきます。

それはイギリスその他、これまでの歴史の中で他の国に対して力で侵略や略奪を繰り返してきた国は信用しすぎない方がいいのかもしれないということです。もちろん、これは人ではなく、あくまでも国です。

そして、それは戦後GHQによって日本を支配した国アメリカも同様です。

アメリカはイギリスの植民地支配によってできた人造国家です。先述したようにアメリカの建国にはフリーメイソンが関わっています。トランプ大統領に変わり、今後今後アメリカという国がどのようになるかはわかりませんが、私は少なくともこれまでのアメリカを信用できません。

長文の投稿、最後までお読みいただきありがとうございました。

「日本において、体制の変化が起きているとすれば、それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない」

(1866年4月26日 ハモンド外務次官からパークス公使宛公文書)

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